考えたり何か言わずにはいられない葦

主にエッセイ。心理のあれやこれやに魅入られた理系大学学部卒がつれづれと書きます。

長文と想いの丈

文章を書くことに心折れてから、もう4年経っていた。

当時尊敬していた、言葉を扱う人に「(あなたの書く文章は)長くて読む気がしない」と言われて
ショックを受けて、それから、自分の思いの丈を綴るような文章が書けなくなった。
 
 

当時、そのショックの全部を言い表せないような気がしていた。

自己陶酔をしているだとか、助長の部分が多いだとか。
その人のことを良いように捉えすぎていてむしろ迷惑だったのかもしれないとか、
FaceBookに自己語り投げてるの痛いよと思ってる人を代表してそう言ってきたのかもしれん、とか。
相談聴いてくれた人にこういったことを吐き出しつつ、
ただ、もっと大事なものがずっと強く引っかかっている気がずっとしていて、
書きたいことやネタを思いつく私の頭の中は、ずっとくすぶっていた。
 
 

が、つい先週、この私の中の葛藤にいったん終止符を打つ出来事があった。
それは、Twitterトレンドで一時話題になっていた、先週土曜日放送の『マツコ会議』だった。
番組の概要だけ簡単にまとめると、マツコ・デラックスと、今年TV露出が増えたCreepyNutsが
マスメディア露出によって発言や意図が切り取られ、誤解・曲解されることが増えた現在のTV業界を憂いた内容だった。

番組の中で、CreepyNutsのDJ松永さんがこんなことを言っていた。
「絶妙な機微 長文じゃないと説明できない言葉をギュッとかいつままれると全く別の意味になっちゃう」
「(俺の相方のように)言葉を丁寧に扱うような人は(TVの露出に)リスクがある」
 
 
 

話を、私自身の話に戻す。

文章長いよ、と言われてから、深く深く悩んできた。
まず、ライター・ブロガー・その他物書き関連を将来メインに出来るかな、という自分への期待がほとんどなくなった。
FaceBookへの投稿もほぼ無くした。
書くのを辞めてからも、書きたいネタはどんどん浮かんできて、文章に起こして誰かに読んでほしい、反応が欲しいと思うたびに
あぁ自分はふつうより自意識過剰な人間だったんだなーと思うようになった。

今になってわかる。
悩んでた自分は半分当たっていて、半分間違っていた。
 
確かに最近は「いかにショートであるか」「いかに明瞭であるか」が流行ではある。
本屋でさえ児童書コーナーに行くと"5分で読める"的なのが並んでる。
YouTubeよりもどちらかといえば流行りはTikTok
私だって動画は最近短めのを選んでいる自覚がある(私の場合はYouTubeのショート動画だけど)。

あと、書くことに興味がどうしてもあった以上
"より分かりやすく誰にとっても読みやすい文章をつくる"技術はやっぱり当時の自分に必要なことだったと思う。
HIUのメルマガライターではその辺の機微を自然と学んでいた気がする(今実際、書きながら助長な部分を消している)。
 
 
 
何気なく言われた言葉に何年も傷ついていて、
学んだことがたくさんあって、それに気づいたのはよいことであって、
ただ、それにしても自分のことを
「思いの丈をたくさん書きたくなるから、自分は自意識過剰で、自分目線の長文書くのは良くない」
と思うのは、あきらかに悩みすぎていた。

ちょっとしたことをたくさん考えてしまうのは性格だからしょうがない。
そういう性格だから、そういう気持ちを短くまとめたりまとめられたりするのが嫌なのは当然。
長文読みなれてなかったり私がどうでもいい人から、長文うぜえなと思われるのは当然。
そんで、自意識過剰なのは中学生あたりからずっとだからマジでしょうがなくて、
それでも書きたくて誰かに読んでほしくて、...
 
 
 
 
こういう自分は裏返しで【言葉を丁寧に扱う人】かもしれないと、
そう思わせてくれたマツコ会議とDJ松永さんに感謝したい。

確かに、短く縮められない悩みや思いの丈を大事にしようとしているから、
私は自分の思いの丈をぶちまけた長文を今日も書いてるし、そもそも心理学とカウンセラーに魅入られたんだと思う。
魅入られた偶然を必然にしたいから、そりゃそれまでの学歴だって職歴だってどうでもいい。

自分の考えてることをどうでもいいと思ってないし、思いたくないし、相手のこともそう思ってないし、
そういう全部を大事にしたいと私はずっと思っている。