考えたり何か言わずにはいられない葦

主にエッセイ。心理のあれやこれやに魅入られた理系大学学部卒がつれづれと書きます。

幸せな人生とは、時に平凡らしい。

最近、5〜10年後の未来のことを考えるようになった。
自分の理想とかなりたい姿とか目標とかではなく、地に足ついてるであろう「今よりも歳をとった若くない自分」を想像する。

小さい頃から、想像できる【大人になった未来の自分】は、28歳が限度だった。

 
本を読んだり周りの大人を見ても、なぜか28歳より先の未来が見えなかった。
自己啓発に手を出すようになっても、明確に未来が手の中に感じられる感覚は掴めなかった。今でもその感覚はない。
ただ、理解できた感覚は掴めなくても、実際に自分の身に起こっていることと、知識として知っていたことがだんだん結び付いてくる。
なんか前よりも手のシワが目立つような気がするなとか。お腹周りの肉が全然落ちないなとか。1日何もなかった、ということが平和であるとしみじみ思うこととか。
なるほど。これが、若くなくなるってことか、と思うことが増える。

小学2年生から高校生の時の夢は、ガチで宇宙飛行士になることだった。自分としては心から真剣に叶えようとした夢だった。自分なりに宇宙飛行士になるための学歴や職歴を調べ、高校の分離選択では迷わず理系を選んだ。
けど今思えば、私にとってのかつての夢とは、非凡であるということとイコールだった。
誰かと普通に結婚して、子供を産んで...ということが嫌だと思ったことはなかったが、
当時、心のどこかで「平凡なまま生きるのは嫌だ」とすごく思っていて、家庭を築くイコール平凡に生きる、というイメージがあった。宇宙飛行士は、私の中で最も非凡な職業だった。

非凡で目立ちたいというありがちな幼少期から、
3.11と大学生活を経て、他人のために人生使ってナンボという思考回路に変わり、
心理学と傾聴と起業関連の話題に5年間のめり込んで、
現在、私は、紆余曲折を経て、ただ毎日を普通に生きてる。
コロナで会えない家族にまめに連絡を取り、仲の良い友達とも糸を切らさないように連絡をとって、飯作って食べて、テレワークで事務の仕事して、健康に生きてる。

強烈なまでに平凡であることの幸せを日々感じている。
昔の自分がこのことを知ったら、もしかしたら怒り出すだろうか。



非凡であり、何かに突出していたり社会的に成功することへの憧れは、自分を含めすべての人が多少持つものだということはひとまず置いておくとして、
私が本当に【非凡】であったなら、今の平穏に心安らいだのだろうか...と思う。
多分、心安らぐどころかイライラするだろう。今の生活にも、自分にも。

結論、私はぜんぜん特別でも非凡でもなんでもない。
ほんとうに、毎日携帯と漫画を欠かさず見ているだけの凡人。

ようやく気づいたのかお前はホント恥ずかしい奴だな、と思っている人は確実に昔の学友には一定数存在するんだろうが、
もし面と向かって知り合いにそう言われたら、たぶん、苦笑いを少し見せようかなという気持ちだけ少し湧いてくるだろう。
それで良い。
少しずつ、若くなくなっていって、無駄な行動や感情の高ぶりや間違いが減って、
ようやく、やらなくて良いことをすぐに止められる自信が出てきたから。

自分の10代のころが、感覚だけで上手くいって生きていた人生だったとしたら、
その感覚を失って苦しみぬいたのが20代前半で、
そして失った感覚を取り戻して、その大事な感覚をくまなく言語化して二度と無くさないようにひたすら努力した20代後半、というのが自己評価だろうか。

自分ではない人と、よく聞く数字と、目立つインフルエンサー
出来るだけ揺らされず、見失わず、
漫画読んで、飯つくったり、休んだり、友達といつまでも喋ったり、ふつうに家族がいたり、ただ遊んだり、そういう自分の幸せをずっと握りしめていよう。
もう二度と手放すまい。ずっと離さないでおこう。

平凡というのは、ちいさい時に思っていたよりもずっと幸せだった。


p.s.
だらだら平穏に生きてる【自分】のふかーい意識の底に、
だいぶ小さくなって残っている「非凡への野心」と、
全ての人が自分の幸せを見つけて欲しいという「自分で描いた理想」が、
なんか上手い具合に合わさって、いつか芽を出してくんないかなーと最近思っている。
でも、寝ていたいなら、まだ寝ててもいいと思う。

放送大での心理学の勉強は、これは種なのか幸福なのかいまいちわかっていませんが、とりあえず続けています。